春の山の形に…

 延々と列車に揺られて山形へ向かう。乗り継いで、乗り継いで。乗客の顔ぶれになかなか変化が現れないので、車内はいつのまにかそれぞれの旅情のようなもので満ちてくる。「がたごと」と揺れるから、考えることは途切れ途切れになり、感傷の持ち合わせも奥へと閉まってあるので、短い考えごとが連なる。イビチャ・オシムの言葉、プラネタリウムのこと、文章のある部分にいたずらに難しい漢字を充てようとする中国風の小人の問題、そんなことを考えては後ろに置きざりにして、いつのまにかうとうとしたり。

 福島から米沢に向かう途中に山をいくつも越える。土地の高低が立体的に表されている地図を手で触るような感覚。山形は東南北の三方を山に、西を海に、ぐるりと囲まれている。芭蕉もいくらか山を越えたのでしょう。

 山形に着き、知らない街を歩いて友人宅へ。歩いて行ったことなんてなかったけれど、迷わずに着く。なかなかそう簡単に迷ったりしない。

 鍋をしたり、蕗の薹を摘んで天ぷらにしたり、不在の人の思い出話をしたり、そんなことをしながらお酒を飲む。遠くに来たなんて、何にも知らないふりをして楽しく過ごす。会議でもしようかと思っていたのだけど、それについても何にも知らないふりをして。そして、なんとなく帰る。山形は近所なのだ、と思い込もうとしている。

 延々と列車に揺られて我が家の方へ。何にも知らないふりをしながらも、帰り道はさらに果てしなく感じる。「どうして僕はこんなところに」というよりは「残されてしまった感」を思わずにはいられない。山形を発つ前に手に入れた晩年のカーヴァーの短編集を読むが、その取り組みの率直さ(のように思える部分)に戸惑い、さらに自分の行く末を安易に重ねてみては心が折れそうにもなる。PTA監督作『マグノリア』の最後で、もし蛙が降ってこなかったとしたら?そんな感じだろうか。往きにはあった短い考え事はもはやまったく浮かばずに、そんな想像とこの一週間の天気のことだけをひたすらに考えることに。

 日常的に蛙を肩に載せてるような女の子の場合、降ってきた蛙がおでこの上でウインクしてくれる可能性だって、他の人に比べたらずっと高くなるのではないだろうか。

 春の徒労の得難さに代わるものなど、なかなかございません。